大善寺(山号:観池山、院号:往生院、本尊:阿弥陀如来)
(座標: 北緯35度40分18.2秒 東経139度20分43秒)

大善寺の創建は、天正年間(1573~1592)北条氏照(立川能登守の子)が、讃誉牛秀(慶長十年1605寂)に帰依して開基となり、滝山城下に建立されました 八王子城の築城にともなう滝山城廃城により大善寺も八王子城下へ移転 更に八王子城の落城で大横町(大横町時代は三百五十年と最も長かった)に移り、多摩川支流の浅川に面し、街道を挟んだ向かいにある同じ浄土宗の極楽寺とともに、交通の要衝で色々な役目を果たすことになりました この大横町時代に徳川家康公から朱印を授かり檀林(だんりん:江戸時代初期に定められた関東における浄土宗の僧侶の養成機関・学問所のこと 江戸時代には浄土宗の僧侶の養成はこの檀林に限られていた)となっております ※大横町時代の大善寺の様子は下記の「大善寺境内図」をご参照下さい
江戸時代が徳川家のもとで落ち着くと、八王子の大善寺は十夜寺(じゅうやでら)として大いに栄え、末寺二十三か寺を持つ大寺となりました また、明治二年/1869には勅願所(ちょくがんしょ:勅願により、国家鎮護などを祈願した神社や寺院)にもなっております 開山の讃誉牛秀上人(ぎゅうしゅう:開山上人)は、浄土宗の布教書の元となる「説法色葉集(せっぽうしきようしゅう)」を著しました 八王子総奉行 大久保石見守長安や代官 竹本権右衛門 等の援護により発展し、第二世 含牛(がんぎゅう)、檀林 大光院の開山となる第三世の呑龍(どんりゅう)など優秀な学僧が多く出ております

昭和になると大きな変化が起きます 戦後には浄土宗を離れ単立寺院となり、また昭和三十六年/1961には八王子市より移転の話が出て大和田町へ移転、その後、現在の大谷町へ移転することとなりました 昭和五十六年/1981に現在の本堂が完成、同時に霊園事業に力を注ぎ、現在は約三千五百基の富士見台霊園の管理元となっております
近年に至り、関係各位より浄土宗へ復帰を切望する声が高まり、度々復帰に向けた協議を浄土宗と重ねた結果、平成三十年/2018の夏、帰属承認を受け大善寺は再び浄土宗寺院となりました
同年十二月十九日、浄土宗関係各位ならびに地元・八王子組寺院・檀信徒多数列席のもと華やかな復帰認証式典が執り行われました

●大善寺の十夜法要
八王子城落城の際の戦死者慰霊のために江戸時代より始められたという十夜法要(じゅうやほうよう)は、その儀式様式は十夜の発祥で知られる鎌倉 光明寺の流れを汲むものながら「滝山流」と云われる独自の法式「諷誦文十夜(ふじゅもんじゅうや)」として、大横町時代には毎年十月十三日から十五日の三日間、「八王子のお十夜」として関東一の人出となる法要となり、サーカス小屋もかかり、現在の寺地に移転するまでのおよそ三百年余の歴史と伝統をもつ行事でありました ※大谷町への移転に伴い休止を余儀なくされておりましたが、平成二十四年/2012より再興を果たしております

機守神社(はたがみさま)/縁結びの神様

 長野から運ばれてくる絹はここ八王子を経由して横浜港に運ばれておりました かつて繊維産業が日本を支えていた時代、八王子は「織物の町」として大いに栄えました その名残のひとつが大善寺境内に祀られる「機守様」です

 お祀りするのは「白滝姫(しらたきひめ)」で天平時代の話も伝えられておりますが、時は下って江戸時代にこんな話が残っております 上州桐生出身ながら多摩に来て博多帯を織っていた福田吉蔵の子 由太郎が、ある夜、霊夢で白滝姫から製織の技法を授かります そしてその感謝のしるしに、白滝姫の御神影を大善寺のかたわらに祠を建て、朝夕の崇拝をかかさなかったという話です 今も機守神社は福田吉蔵の家系が設立に関わった八王子織物工業組合、そして大善寺とにより守られております

尚、白滝姫の降嫁伝承にまつわり、機守神社は『縁結びの神様』としても知られております

■ 毎年、七月の第一土曜日、機守神社の禮祭が催され、当日は秘仏の「白滝観音尊像」を公開しております